□□91年5月
東京の狭い借家の窓からは、遠く富士山を見ることができた。子供が大きくなるにしたがって、近くの多摩川や府中の公園にお弁当を持って遊びに行くことが多くなった。
91年多摩川の河原にテーブルをおいて
川面をよぎる夏風や草いきれ、蝉の声やキラキラと光る木漏れ日に、昔見た風景が重なって見えた。
「行きたいなあ、どこかに」
ちょうど、世はオートキャンプが大ブームになりつつある頃だった。
「先輩、こんど家族でオートキャンプ行こうと思ってるんですけど、必要なもの教えてくれませんか。」
と、社内ですでにオートキャンプを始めていた先輩にたずねた。キラリと目を輝かせて、先輩は次々と必要な道具の名前をあげていった。
「え?そんなにあるんですか? なにぶんにも最初だし、一度にそんなに揃えられないですよ。お金もないし。学生の時使っていたものなら、まだありますけど。ホーエブスとかコッヘル、ピッケルもありますよ。とりあえずテントはキャンプ場のものを借りようと思うんです。シュラフは自分のしか無いんで、毛布を持ってけば何とかなると思うんです。食器はうちのかみさんに背負わせていきます。」
ううむ、と考えこむ先輩。
「わかった。とりあえず最初はそれでなんとかなる。でもな、絶対にランタンは買っていけ。」
「ランタン?ああ、それなら持ってますよ。中国製の灯油入れるやつ。中学生の時に中国物産展で毛沢東の切手と一緒に買ったんですよ、でも灯油が漏れて臭いんだ。ローソクと懐中電灯じゃだめですかねえ」
「俺もな、最初はそうだったの。家族でキャンプ行った時、昔の感覚でテントの中でローソクつけて飯食ってたわけ。でもどうも周りの連中のところが明るいの。自分とこはボーッと薄暗くて、なんかまるきり、ネオン街の裏手の赤提灯みたいな感じなのよ。そのうち、息子が聞くんだよね。おとーさん、どうしてぼくんとこはこんなに暗いのって。こども心に親に遠慮しながらね。で、調べたんだよ。何食わぬ顔して、トイレ行く振りして人様のところを窺うわけ。そしたら、これがランタンってしろものだったんだね。あとで調べたらガソリン式のやつだった。ガスカートリッジで使うものもある。これがあるのとないのとでは、平成21世紀と縄文原始時代、豪華マンションオートロック完備と3畳一間のわびしい下宿くらいの違いはあると思ったほうがいい。」
このランタンは後から買ったmodel-288A
それでぼくは、池袋にあるSRCという大きな店でコールマンのmodel-282-700Jを手に入れたのだった。
家にもどり部屋の明かりを消して点火する。まぶしい。子供達が騒いでいる。ぼくの身体からは汗が吹き出ている。明るいなあ。よし、キャンプ行くぞ。子供のキラキラ光る目を見ながらぼくは決めたのだった。
□□91年7月
なにせ最初のことだったので、1泊2日の計画で海の近くに行こうということになった。キャンプ場ガイドで調べ予約の電話をいれた。幸いにもテントは貸し出し分があると言う。我が家の記念すべきこの最初のキャンプは勝浦チロリン村オートキャンプ場というところだった。
首都高と京葉道路を抜け、千葉の山中に入っていった。キャンプ場には正午に到着した。受け付けをすまし、指定された場所を見ると、そこにはつつましやかに黄色と緑のテントが立っていた。
「テント建てときましたから。ゆっくりしていって下さいね」
管理人さんがにこやかに笑った。ぼくは芝生で綺麗に整地されているサイトに、新車エスティマを横付けにし、この日に合わせて買ったばかりのテーブルやイスをおろしていった。
ぼくの知っているテントといえば、2本のポールを立てて、張り綱で固定し、四隅をペグでとめる三角形のものばかりだった。なのに目の前にあるテントには、前室もついている。昔読んでいた山岳雑誌の海外遠征隊のベースキャンプにあったような立派なものだ。日除けもついている。なになに、ダンロップA613と書いてある。そうか、なるほど、うんうん。こうなってるのか。へええ、にやにや。
「ねえねえ、なに1人でぶつぶつ言って頷いているのよ。はやく道具ならべようよ。イスはどこにする?テーブルはこのひさしの下がいいわよね。あっ、食べ物入れた段ボール箱は風通しのいいとこにして。それから、そこの毛布取って。靴おくところないわねえ。食器は適当に出しましょ。着替えも入れた?へえ、テントって以外と広いのね。そうそう、他にすることはっと・・・・。おとーさん、おとーさんったら、たくちゃんがおしっこに行きたいって。トイレに連れていって。早く。おねーちゃん、おねーちゃんも行って来なさい。あーもれちゃう、もれちゃう。」
ぼくらのキャンプはまことにあわただしく、しかし、楽しく始まったのであった。
空が黄昏色になってきた。そろそろ、ランタンに灯をともそう。ジジジッ、シュコー。いい音だ。マントルが金色に輝いている。完璧だ。そうだ、ウイスキーを出そう。ウイスキーをカップに注ぎ、チェアに座って空を見上げた。…明るい。まだ午後4時だもの。遠く飛行機雲が一本北に向かって伸びている。背後の林からは鳥のさえずりが聞こえる。子供達は3人で探検に出かけた。静かだ。
燦然と輝くmodel282-700J
「ねえ、もうランタンつけちゃったの?そんなことしなくても十分明るいと思うんだけど。ガソリンもったいないんじゃない。それよりご飯炊いてくれない?お米はちゃんと研いでね、ちょっと水で流しただけなんてダメよ」
それからしばらくして本当の夜になった。
チカチカと他のテントにもランタンがともった。先輩の言っていたことは本当だった。強弱、色合いはすこしづつ違うが、どこのサイトも明るくて、華やいで見える。
小学3年のトモカはランタンの灯の下で「はてしない物語」を読んでいる。弟達は懐中電灯をもって、また探検に行ってしまった。ぼくはウイスキーカップを手に、テントから離れた。遠くからわが家を見る。うんうん、光ってる。輝いてる。
そうか、こういうのが家族キャンプなのか。山に行っていた頃はキャンプといっても、次の朝はやく起きるために薄暗くなるころには寝ていた。料理はエネルギーを取るだけでいつも同じようなものばかりだった。あれは道中の自然や景観を楽しむことが目的の旅だった。
旅をしていくことと、特定の場所にいて自然を楽しむこととは、ちょっと違う。だから道具も違うんだ。だいいち車使うんだもんな。そういうことか。これがいわゆるオートキャンプってやつか。あれっ、そういえばうちのおかーさんの姿が見えないな。どうしたのかな。そのとき、トントンとぼくの肩をたたいて。
「さて、洗い物、洗い物。ねえ早く手伝って。炊事場はあそこだから。で?明日は海水浴できるよね。ちゃんと連れてってね。海まで」