□□ 05年11月19日
良く晴れた朝、車で山に向かうときが良い。今日は新品の三河黒七輪とジンギスカン鍋が積んであり、クーラーボックスの中にはラム肉と『ベルのタレ』も入っている。だからよけいにワクワクしてくる。
毎年きまって寒い頃、いい歳の親父が集まるというキャンプがひらかれる。愛知のライダーさんが声かけて始まる。今年は岐阜の山中ということになった。それぞれ適当に飯などつくり、焚き火の周りで適当に寝るか飲むかするだけのキャンプである。皆、そういう状況を理解し、それぞれ迷惑をかけないで自分の世界に入り込むということをする。自分のことは自分でする。酒のやりとり、つまみの交換。そんなこともてきとうにだ。
しかし、今回のぼくはいままでのルールをちょっと違反した。ジンギスカンをやると決めた段階で、他のメンバーを必然的に巻き込むことになった。肉の量、野菜の量が多すぎる。ついでにワインも2本ボジョレヌーボーがある。HOPEさんも肉を買ってきてくれることになっている。一人分には多すぎる。必然的にみんなを誘うことになる。でも、結構それで盛り上がる。こういう気分の盛り上がり方は、宴会。静かに人生を省みる親父キャンプの趣旨に反するものであります。しかし、そういう理屈は深く考えない。食べるときは食べる。飲むときは飲む。
ぼくの今日の食べ物はジンギスカンだけではない。新品の黒七輪の性能を確かめたいのだ。だから炭でなにか焼いてみたくてしかたがない。そこで、東濃および木曾で広く食べられている五平餅を作ろうと画策してもいる。他にも焼いて食べられるものを仕入れてきてある。焼き物三昧ですごそうと思っている。
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青い山脈 下の林の中にキャンプ場がある
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さて、岐阜県恵那市の保古の湖キャンプ場である。人造湖「保古の湖」に隣接する谷に沿って林間サイトが広がる。ちなみにこの地域、ぼくの故郷でもある。ここは小学生のときの遠足コースだ。何回か来たことがある。
ここいらの人間は、なにもこんな場所で好き好んでキャンプなんてしない。自分の住んでいるところがすでに自然の真っ只中。都会の人たちが憧れる田舎暮らしの真っ最中だからだ。
都会の衆はなんでこんなところに来てキャンプなんてやっておるのかなあ、同じ食べるならどっか、綺麗なレストランでもいけばいいのにな。わざわざ薄っぺらなテント張って、寒くないのかなあ。というのが正直なところだ。街の人間のやっていることが理解できない。少なくともぼくの小さい頃の大人はみなそうだった。
昔は、風呂だって薪を燃やして焚いていた。薪割りと風呂焚きは子供の仕事だった。夏、隣の叔父さんたちが川で、鮎、鱒、ヤマメなどを獲ってきて、分け前をくれた。秋になれば稲刈りだ。田んぼの土手で家族一緒におにぎりを食べた。冬は雪がたくさん降った。毎年必ず雪だるまを作った。
それ以外のときはメンコや独楽回し、広場にいくとそこいらのガキ大将たちがそれぞれの子分を連れて集まってきた。すぐに覇権を争うべく対抗の缶蹴りや馬乗りが始まった。
町の中にはたくさん川が流れており、笹の葉でつくった船を流してどこまでも一緒に走っていった。夕暮れになるとカラスが山に帰っていった。カラスが鳴き始めるとぼくらも家に帰らなければいけない。服を真っ黒にして家に戻ると叱られた。
そんな場所柄だから、ここにキャンプ場のあることは知っていたが、実際に使うのは今日が初めてなのである。
さて、指定のサイトに小さなテントをそれぞれ張って準備を開始。ぼくはいつものように自作の七輪テーブルを組み立てて三河黒七輪をこれにセット。焚き火の準備は渡部、ライダー両氏が適当にやっている。HOPEさんは空を見上げては木漏れ日を眺めている。
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テントサイトは林の中 ソロ用テントが並ぶ
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木漏れ日を眺めるHOPEさん 渋い
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炭をツーバーナーで熾し、七輪に投げ込む。投げ込んだあとはしばらく放置。その間に野菜を刻んで皿に盛り上げる。肉を出す。さておよその準備が整ったところでボジョレヌーボーの栓を抜く。今年のできはいかが。飲んでみる。ふっ…フツーだ。去年の方が良かったような気がする。ちょっとこくが足りないというか、薄っぺらというか。ま、でもボジョレに多くを期待してはいけない。ラム肉にはあいそうだ。
さて、炭からヒラヒラとオレンジの色の炎がでてきたら、七輪の上にジンギスカン鍋を置く。これを良く焼いてから脂身をドーム状になった鍋のてっぺんに置く。タラーリタラーリと油が鍋の溝に沿って下に落ちていく。そうなった段階で鍋ドームの下周りに野菜を敷き詰める。野菜がジュウジュウと良い音を出してきたところで、鍋ドームの頂上付近4合目から上あたりに肉を置く。
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さあ!食べようジンギスカン (クリックで拡大)
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ジューッ、という音とともに肉が焼ける。片面を焼いたらひっくり返してもう一方を焼く。火が通ればタレにつけて食べる。…うっ美味い!これぞジンギスカン。北海道出身の渡部さんも美味い美味いと叫んでいるところをみると、やはりこれはほんとうに美味いのだ。『ベルのタレ』。これが勝敗を左右する。
焼肉のタレはいろいろある。なかでもジンギスカン用に調整されたタレの中で、北海道にあるベル食品の製造販売するジンギスカンのタレ、通称『ベルのタレ』が一番美味しいのではないかと思う。北海道の家庭には必ず常備されているという噂を聞いた。あながち大げさなことではないと思われる。
香辛料の独特な配合、りんご、にんじん、玉ねぎなどの香味野菜、醤油と砂糖の量、それがとにかくラムやマトンに最適である。これなくしてジンギスカンはありえない。
ジンギスカンには忘れられない思い出がある。その内容はこちらを参照していただきたい(放電生活連絡版「ジンギスカンの思い出」参照)
さて、思い入れたっぷりのジンギスカン、最後はほうじ茶である。肉の脂や野菜のエキスが残っているタレの器に熱々のほうじ茶を注ぐと、これがなんともいえなく美味しいスープになる。
ジンギスカンで腹いっぱいになったところで、場所を焚き火の周りに移す。焚き火というのは炎を見つめているだけで時間を忘れられる不思議なモノ。ぼくたちはそれぞれ焼酎やウィスキーを飲んでだりして、それぞれが時が流れるのを楽しんだ。
HOPEさんがサンシンを出して爪弾き始めた。独特のこもった弦の音。沖縄の音がした。
夜になった。晩飯の支度が始まる。ぼくはパックライスを温め、五平餅を作り始めることにした。
五平餅はうるち米で作る。
まず、炊いたご飯を五分つきにして直径およそ3〜4センチの平たい団子状に丸める。これはぼくの家のやりかただ。土地によっては大きく平べったく伸ばすところもある。その形が神主の持つ御幣に似ているから、これを五平餅と呼ぶようになったという話もある。
さて、ぼくの家のやりかたに戻る。
ぼくの故郷では、なにかにつけ五平餅を食べる習慣があった。さすがに現代は珍しい食べ物になった観があるけれど。
盆、正月はもちろん、お客さんがくれば五平餅、親戚が集まれば五平餅、稲刈りあれば五平餅、腹が減ったら五平餅、なにがなくても五平餅だった。およそ半日かかりで祖母が中心になって作っていたものだ。祖母や母たちが団扇で炭を煽ぎ、一メートルはあろうかという専用の火鉢で串に刺した団子を焼き始めると、ぼくはため息をだしたものだ。
「また五平餅かぁ…」
タレには胡桃や落花生を摺って加える。その他にゴマ、醤油、砂糖、味醂を加え暖めて甕に保存しておく。これをうなぎの蒲焼の要領で団子につけて焼くのである。ところがこのタレを自作するとなると、手間と時間がかかる。したがって今日は、恵那市にある「あまから本店」で買ってきたタレを使う。ここのタレが一番我が家の味に似ている。ちょっと粘度が高いけど。
さて、ラップを使って丸めた団子を串に刺して遠火でじっくり焼く。この工程が一番肝要である。表面が硬くなるまでじっくり待つ。
表面が硬くなったら、タレをつける。
タレをつけた団子をもう一度火にかける。もう少しサラリとしたタレならば2回ほどつけて蒲焼の要領で焼き付けるのがいい。あまから本店のタレは粘度が高いので一度で十分。
さて、食べましょう。美味いです。子供のときは食べ飽きてしまって少しも美味しいと感じたことはなかったけれど、今食べると不思議と美味しいと感じる。そうか、ぼくの故郷には。まだこんないい食文化があったのだなあ、とちょっと感慨深い。
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五平餅を焼く 美味い
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やれやれ満腹だ。でもまだ食べ物がたくさんある。目刺も買ってきた。これを焚き火の周りで焼く。ラム肉の残りを石焼にする。HOPEさんがおでんを出す。ぼくはウィスキーを飲みながら、みんなと四方山話をする。静かに山の夜が深くなっていく。温度計を見ると0.4度になっている。明日は氷点下になるかもなあ。
23時。そろそろ薪も少なくなってきた。それぞれ自分のテントにもぐりこむ。夜中、何故かやたら寒かった。
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焚き火
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翌朝。ふたたび焚き火の周りに集まり、それぞれ適当に朝食を食べ始める。そうこうしていると土岐市から、まるちゃん一家がやってきた。サトシもミサトもでっかくなった。ぼくは彼らが赤ちゃんのときから知っている。子供の成長にはホントに驚かされる。そういう我が家の子供達もすでに成人していたりする。まるちゃんのところではいつのまにか、3人目の子供もいた。お兄ちゃんたちが良く世話をする。両親のしつけが良いのだ。
まるちゃん一家が喜んでジンギスカンを食べ始めた。残っていた野菜も肉もぜんぶ無くなった。
八王子からきた渡部さんが帰り、HOPEさんも帰った。ぼくらも帰り支度だ。今日は東京国際女子マラソン。Qちゃんはどうなっただろう。携帯電話のテレビで確認する。20キロを過ぎた時点でQちゃんはトップ集団にいる。よしっ、ぼくも帰ろう。
恵那インターから中央道に入るが、マラソンが気になってしかたがない。ぼくはSAに車を入れ、売店のテレビの前に陣取った。35キロを過ぎたところで先頭集団は3人。そこからすぐにQちゃんがスパートをかけた。売店の中の人たちもみな、テレビの前から動かない。ぼくは結局、Qちゃんがゴールするまでそのテレビに釘付けだった。Qちゃんの頑張りは、ぼくたちに感動を与えてくれる。さあ、明日からまた仕事だ。今回も良い放電だった。